弘前城の桜と師団の面影を歩く
貴重な洋館を残す北国の兵たちの師団跡
日露戦争の切り札となった北国の兵
日露戦争では、当初はロシア軍の北海道上陸に備えて内地に留め置かれていたが、やがて寒さに強い北国の兵たちは対ロシア戦の切り札として満州に派遣され、黒溝台会戦で初陣を迎える。
秋山好古少将率いる部隊を助けるため師団夜襲などを行い、兵力の半数を消耗しながら「国宝師団」と称えられる活躍をした。
危機的だったロシア軍の冬季攻勢を退けた黒溝台会戦は、陸戦における日露戦争の転機となった。これを率いたのは創設時に親補されもっとも長く師団長を務めた立見尚文。桑名藩の出身で戊辰戦争時に薩長軍をしばしば破った陸軍一ともいわれる名将だ。
その後の師団長には、皇道派の中心人物で後に二・二六事件の関与を疑われた真崎甚三郎や、加賀前田家十六代当主の前田利為らがいる。
満州事変では熱河作戦などに参加、昭和12年から関東軍の最精鋭として満州に駐屯した。
太平洋戦争末期にはフィリピンへ転出、「振武集団」の一員となってルソン島で終戦を迎えている。ちなみにルバング島に潜伏し戦後29年経って元上官から任務解除を受けた小野田寛郎元少尉は、終戦時に「杉兵団」と呼ばれていた第八師団の参謀部に所属していた。
当時と変わらない師団の建築群
青森は空襲で焼け野原となったが、弘前は戦災を免れ師団の建築群は他の多くの洋館とともに、その姿が今に伝えられることになった。弘前から帰国したアメリカ人宣教師たちが、弘前を空襲しないよう動いたからという話が地元ではよく語られる。
ほぼ半世紀で「軍都」の機能を失ってしまったが、煉瓦造や木造のさまざまな建築が、当時のハイカラな雰囲気を教えてくれる。
なかでも貴重といえるのは、明治40年(1907)に建てられた、将校用の親睦・厚生組織だった旧弘前偕行社だ。手がけたのは独学で西洋建築を習得した、いわゆる「棟梁建築家」の第一人者だった堀江佐吉で、彼の人生最後の作品となった。第「八」師団にかけて正面玄関のポーチに「蜂」のデザインを入れたのは堀江のユーモアという。
師団の創設当時、兵舎建設や鉄道工事などで請負業者は大いに潤ったという。追手門広場に保存され、現在人気の観光スポットになっている旧市立図書館は、利益還元のため堀江らが日露戦勝を記念して寄付したものだ。
点在する師団の建屋は、道路との位置関係が当時とほとんど変わらないため、古地図を参照しながら簡単に見つけられる。郊外にあった射撃場跡に戦後つくられた陸自弘前駐屯地の防衛館で、師団関係の資料や記念碑などを見てから回るとよい。
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